飛浩隆『零號琴』

 人類にこういうの、書けるんだって思った。多少物語に接している人であれば、この作品の構築に必要な想像力のスケールの大きさにたじろぐと思う。そして作者は、この大きな想像力で、想像力の営為である日本SFをまるっと懐疑に付して解体し、これまでの歴史によって規定された想像力からの解放された、より自由な想像力へと人類を送り出そうとしている。飛浩隆は偉業を成し遂げている。
 本作は最初は「リットン&ステインズビー協会」のころの飛さんを思わせる作風で始まる。読んでいるうちにだんだんスケールが大きくなっていく。プリキュアシリーズと『魔法少女まどか☆マギカ(しかし本作の連載開始は『魔法少女まどか☆マギカ』より前である)を思わせる女児向けアニメをゴジラ戦隊ものウルトラマン、アトム、ナウシカ、あとエヴァンゲリオンなど日本SFの映像諸作品の要素を想起させる「伝統的な舞台」に翻案しながらねじ込み、解体していく物語になっていく。要するに日本の伝統としてのSFをまるごと廃墟にしながら批評していく怪作になっていく。
 それでいながら、本作は明らかに飛さんの作品である。これは明らかに、飛さんの代表作である『グラン・ヴァカンス』のリターン・マッチになっている。本作の舞台となる惑星「美縟」の設定とその運命は、「数値海岸」の「夏の区界」のそれを想起させる。本作と『グラン・ヴァカンス』の大きな違いは『グラン・ヴァカンス』がAIたちの物語として完結するのに対し、本作は惑星「美縟」に外からやってくる人たちによって物語が推進されることにある。つまり、本作の舞台となる惑星「美縟」が日本SFという歴史と想像力のメタファーで、そしてそこに外から訪問する人物が本作では主要な役割を担う。この物語は「読者こそが物語の担い手」であることを殊更に突き付けてくる。本作が問うているのは日本SFの歴史であると同時に、日本SFを享受する私たちのあり方である。この問いが『グラン・ヴァカンス』から始まる〈廃園の天使〉シリーズにも仕組まれていることは既に述べられていることだけれど、本作はそれをより強く指摘している。特にワンダ・フェアフーフェンと鎌倉ユリコの役割は非常に大きい。この惑星の外から来て物語の続きを記述する女性作家・記者たちの存在は本書の最重要ポイントの一つだろう*1。ここで物語に外から訪れる読者は読者=創作者として再定義される。二次創作を発表する人はその典型だろうけれど、それに限らず、おそらくすべての読者が常に翻案し、物語の外側に新たな物語を想像=創造する創作者として物語を解体し、そして再構築するものとして作品を享受する。そういった存在としての読者=創作者が問われている。
 本書を覆う黒と金を背景にした血と暴力の絢爛豪華さ騙されてはいけない。本書に通底するのは優しさと暴力への敏感さだ。本書は戦争、そして原子爆弾という未曾有の科学の暴力と共に始まった日本の戦後SFの原点と徹底的に向き合い、解体し、廃墟にする。そして次の世代に新しいSFを作って欲しいと願う。この作品の奥底には、誰かが犠牲になることで保たれる平和を許さないという強い意志がある。暴力から始まる物語ではなく、自由から始まる物語を本書は読者に託している*2
 ここまで書いていて申し訳ないのだけれど(とはいえこれぐらいでは本書の凄まじさを全然表現できていないのだけれど…)、私自身はプリキュアも『魔法少女まどか☆マギカ』も、そしてその他の日本SFの映像諸作品もろくに見ていないので、本作を十分に読み込める読者ではない。これらに親しんでいる人は、私よりも本作をよく読めると思う。もちろん見ていないからといって、本作を楽しめないわけではない。私は本作を存分に楽しみました。

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*1:ジェンダーの観点からも本書はさまざまな要素が織り込まれている。『ラギッド・ガール』でセンス・オブ・ジェンダー賞を受賞した飛さんの面目躍如だ

*2:「轍世界」とは「SFの歴史」そのものであり、歴史性を強調するために「轍」と付されているのだろう。作中で述べられるその外側への意志は、歴史からの解放だ。