北村薫『雪月花―謎解き私小説―』

北村さんは『空飛ぶ馬』以来ずっと様々な形式で文学の話をし続ける。本作は私小説である。随筆ではない。北村さんご自身が「私小説の方法は、情痴小説や家庭の葛藤を描くことにのみ適用されるものではなかろう」と記していらっしゃるように、日本文学史のエピソードをひたすら掘り返し続ける私小説もあって良いのだ。脱線を挟みながらゆるゆると進み続ける本書は、四輪馬車を「よりんばしゃ」と読むか「しりんばしゃ」と読むかという話題を楽しめる文学好きの文学好きによる文学好きのための私小説である。
 本作は人と本のつながりを主人公が図書館や出版社、古書店などを回り書物を紐解きながら明らかにしていく物語であるが、しかしタイトルは『雪月花』なのだ。これは言葉によって構築されるフィクションである文学が現実の季節の風物と深く結びついてきたことを示す。近現代文学の多くは都市という人工性の高い空間における人間関係を基盤に生み出されるけれど、しかし名作の多くは季節の風物を的確に作中に織り込む。文学は季節の風物と共にあることを強調することによって世界の陰影をより一層色濃く取り込み、自然さえも人工の一部とする。そしてこれは同時に文学という人工も自然の一部であることを強調する。つまり言語という人工によって織りなされた作品さえも、そもそも自然の一部であったと再認識させるのだ。人工は自然を逃れない。自然は人工を取り込むことでより厚みを増す。ここに自然と人工の相互侵食によって表現される緊張感のある文学が成立する。それゆえに徹底的と人工性に遊ぶフィクションのためのフィクションへと挑戦する文学が一層の魅力を放つという側面もあるのだけれど、自然への慕情を懐き、それを取り込みながら言葉で世界を構築する素直な文学作品の豊かさは愛おしい。
 このように書いたけれど、実は北村さんの本作に、緊張感はあまりない。もちろんそれぞれの作品の結末部はしっかりと締めてくれるけれど。作品の大部分は文学作品とそれを愛する人たちの世界で主人公が伸びやかに遊ぶ様子が描かれる。円熟の境地においてはあらゆる対立はほどけ、ただゆったりとしたぬくもりが残る。
 緊張感のない作品は慣れ親しんだ人のためのものである。本作の小説としての優劣を測る尺度はない。本作を初めて北村薫さんの本を読む人には勧めない。最初に読むならやはり「ベッキーさんシリーズ」でしょう。異なるものたちを緊張なしにつなげることを「遊び」と呼ぶ。それが極められると「名人芸」になる。そしてよく「遊べる」関係を「親しむ」や「友とする」と呼ぶのでしょう。本に親しみ文学を友とする名人の芸を私たちは本書を通じて仰ぎ見るのだ。

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