晴れの金曜日。
金曜日定例の『善の研究』読書会をする。西田における統一と分化、神、真実在、個物、カント、ヘーゲル、スピノザ、ライプニッツなどへの対応などを議論する。なぜ西田は自分の主張を正しいものとして主張できたのか、という難問が提起されて、とても充実した議論となった。
お昼ご飯を食べながら、若者たちに最近起こった良いことや悪いことなどを聞く。いろいろあるけれど、みな元気そうである。
そのメールには返信が届いているはずだとccに入っている人から教えていただいて確認するも、こちらのメーラーにはこちらから送信したメールがあるばかりで、何も届いていない。困る。仕方ないので転送していただく。困る。
靴擦れは敵わないので靴を買いに行く。ちょっといいのを買う。完璧にぴったり合うという感じでもないけれど、クッション性が高くて歩きやすい。靴擦れもできなさそう。
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。」須賀敦子『ユルスナールの靴』、河出文庫版9頁。
二十世紀後半に最も美しい日本語をつづった須賀敦子が生前最後に刊行したエッセイ『ユルスナールの靴』はこのように始まる。僕は靴が合わないとぶつぶつ日記に書いてすぐに靴を買いに自転車を走らせて、そこそこ合う靴で満足するのだけれど、須賀さんは自分の足に合う靴がないという嘆きを半世紀以上貯めこんで、ここまで美しい文章にまとめることができる。世界には自分の敵わないものというのがあるのだと見せつけられるわけだ。そして須賀さんはユルスナールの評伝とそこに収められた彼女の写真を見て次のように記す。
「じぶんでじぶんの靴の面倒がみられるようになってからは、生涯、ぴったりと足に合った靴をはいた、それ以外の靴をはこうとしない部類に属する人間として、出発したのだったろう。」同、26頁。と
須賀さんは、自分にないものをユルスナールに見た。もちろん、これはただ、ユルスナールは自分にぴったりの靴を持っていたという事実だけではないだろう。ぴったりの靴は誰にでも手に入れられるものではない。僕の敵わない須賀さんの敵わない存在としてユルスナールは存在したのかもしれない。この「完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきた」という振り返りは、須賀さんの作品全体に伏流するさみしさともがきを完璧に表現しているように思う。
肩こり解消のためにはパソコンを使用する姿勢を良くするべきである。ということでパソコンの画面をスタンドで高くし、ほこりをかぶっていたキーボードを引っ張り出して接続する。快適だ!