人間中心主義者の覚書

 日中の読書会で人間中心主義の論陣を張って反人間中心主義と議論をする。ボコボコに負けたような気もするが(西田幾多郎読書会で西田研究者と議論しているから別に負けで良い)、自分は九鬼周造と共に人間中心主義者として死ぬ宿命にあるので、負けても特に妥協はしない。不毛な議論をさせてごめんな。
 ここで言う人間中心主義は、私は私という人間に生まれてしまった偶然を引き受けて、私という視点からしか世界に臨むことはできないということ。他者の視点を想像することはできるけれど、他者にはなれない。世界では何かが生じたり生じなかったり、物と物との間には様々な関係があるのかもしれないけれど、全ては私という観測者を通さなければ私には認識されない。だから私の認識のあり方は私にとって課題となる。私が気を抜くと、私の世界はほどけていく。そして残念ながらそもそもこの私という観測者は大して精度が良くないので、普段から不正確にしか世界(もちろんこの世界には自己自身のことも含まれる)を捉えてはいない。私は世界を不正確に捉え、簡単にほどけてしまう程度に構築することしかできない。変なことを言っているわけではなくて、私たち人間はしょっちゅう間違えるし、勘違いするし、変なオカルトに引っかかったり妄想に囚われたりするえしょう。そしてしばしば、私たち人間はすべての関係性が見えなくなり、絶対的な孤独を感じることがある。人間は愚かで狂いうる(もしかするととっくの昔に狂っているのかもしれない)。人間は全然正しく世界を認識・構築できない。ゆえに私が直面する全て偶然性がつきまとう。だから全部無意味というわけではなく、むしろ無数に意味を生産してしまうということ。その中にはごく一部有意義になりうるものがあり(九鬼のいう邂逅はこれ)、そしてほとんどは救いようのないものである(とはいえ救えないものの救済は願われる。ここではないどこか別の世界で、いつか救われねばならない)。この私の世界の不安定さを変化の可能性と捉えて楽しく生きることが期待される。こう書いてみると、要するに①物自体で何が起こっているのかはわかんない②自分の知性は高くなくて狂いうる③だからってくよくよしないで人生を楽しもうね☆ということだな。
 上のはくどい。日中の議論を踏まえてもう少しまとめて書こう。物や自然にも精神性があり、物と物の間にネットワークがあるのかもしれないけれど、私という観測者がそのネットワークを認識しなければ、私はそこにネットワークがあると認識することができない。私は私を経ずに物の存在を知ることができないので、いかなる精神性もコンタミしていない純粋な自然に触れることはない。だから物や自然にも精神性があるのかどうかは判断が難しい。そしてここでコンタミする精神はしょっちゅう間違えるし、狂っているかもしれない。本当のところはわからない。そしてしばしば、私たち人間はすべての関係性が見えなくなり、絶対的な孤独を感じることがある。それゆえに我々は常に不安である。この不安はどこまでも拭い去れない。慎重に検討いた後に残る最後の不安はえいやっと飛び越えるしかない。これが我と汝の邂逅における倫理「遇うて空しく過ぐる勿れ」である
 博論を書いた後は九鬼以外のことをしようとしてきたけれど、結局自分は九鬼の哲学からは逃れられないのだなと諦めるために夏を過ごしたような気がする。