2023年8月14日月曜日

 曇りから雨の月曜日。夜になるにつれてだんだん雨風は強くなっていく。
 妹が今日からしばらく不在になる。お気をつけて。
 祖父の調子がちょっと悪い。心配。
 皆それぞれどこかが悪い。健康は得難いものである。
 小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ 3』面白かった。3巻も軽い文体でさくっと読めるのだけれど内容はバチバチに社会派のハードSFでだった。スケールが大きいSF的想像力が奔放に走り回っていてとても楽しかった。今後どこまでこのシリーズが広がっていくのか、期待が大きい。
 『ファミリーヒストリー草刈正雄さんの回を見る。自分はあまりドラマを見ない人間なのだけれど、『美の壺』のコミカルな草刈さんのファンだから見る。番組では草刈さんが涙を流し続ける壮絶な家族史が語られた。差別と偏見の中にある厳しい歴史だった。草刈さんは立派だ。また放送されるという草刈さん訪米編もぜひ見たい。
 「待つ」について。昨日は私たちは常に待ち、常に待たせていて……などとぐだぐだ書いた。「待つ」とは誰かの行為を期待することであり、「待たせる」は誰かに行為を期待されていることである。これは社会の中で行為のネットワークがあると期待されているという意味であり、つまり待つ/待たせるは「自分は孤独ではない」という表現である。しかし孤独な「待つ」もあるはずだ。孤独な人は待たれることなく待ち続ける。それは「何か」が偶然訪れることを待つのだ。当てのない「待ち」が孤独にはある。待つ/待たせるネットワークの外で待つ人に安定的な世界は存在しない。世界は「何か」が訪れたときにのみ息を吹き返す。それまではじっと世界の外側に沈みながら「何か」の訪れを待ち続ける。しかし待たれていない人に何かが訪れるとすればそれは奇跡である。奇跡を待つ。孤独にはそれだけがある。
 この孤独な「待ち」の姿勢はつまり消費者の姿勢である。消費するばかりで生産し、与えようとしないから、待ちになる。働かぬものだけが孤独になる、という主張も簡単に思いついたけれど、これは的を射ていないだろう。ここで顕になっているには消費と生産の二項で世界を分けてしまう言葉の貧しさである。生産と消費の二項で捉えられるのは待つ/待たせるネットワークでしかない。生産とも消費とも異なる停滞がある。それが孤独な「待ち」である。誰からも見つけられないはずの停滞が誰かに見つけられる奇跡の瞬間を当てもなく待ち続ける。これは消費でも生産でもなく、祈りである。
 待つ/待たせるネットワークにある自己と孤独に待つだけの自己は一人の人の中に共存する。つまり、社会の中で孤独になるのだ。孤独な待ちと待つ/待たせるネットワークの待つはしばしば混同されるが別物である。奇跡はネットワークの彼方からしか訪れない。待つ/待たせるネットワークと孤独な「待ち」を共存させることにこそ人間らしさがある。